死刑が国際的な非難を浴びる理由のひとつは、制度維持国の多くが独裁、もしくは独裁的体制を取っており、その適用・運用の基準が不透明で恣意(しい)的だからだ。究極の刑罰の執行は適切な捜査と公正な審理、公正な陪審員の選定、情報の公開が保障されることが最低限の条件だろう。
では、民主主義国で情報公開も進んでいる米国ならそうした問題はないのか。これが難しい。ひとつには、米国特有ともいえる人種問題がある。
国際人権擁護団体「アムネスティ・インターナショナル」が2003年4月にまとめた報告書によると、米国の殺人事件の犠牲者はアフリカ系(黒人)と白人がほぼ同数だが、死刑復活後に執行された840人余りのうち80%は、白人が犠牲となった殺人事件だったという。アフリカ系は全米人口の12%程度だが、処刑者は34%と全体の3分の1を占める。
陪審員の構成についても疑問が投げかけられている。1977年以後、死刑が執行されたアフリカ系アメリカ人の少なくとも5分の1が白人のみの陪審員団により裁かれたという。
死刑廃止派のヒューストン大学(テキサス州)のダウ・ロー教授は「人種が影響しているのは間違いないが、人種より貧困がより大きな問題だ」と適切な弁護活動を受けられないといった社会格差が刑の格差を生むと指摘する。
一方で、冤罪(えんざい)が多いのも特徴だ。DNA鑑定を利用した収監者の救済活動を続ける「イノセンス・プロジェクト」によると、92年の設立以来、有罪宣告後無実が証明されたケースは全米で212件、うち15人は死刑囚だった。「陪審員も誤判を恐れ、死刑の評決に慎重になっている」(ロー教授)との側面もある。
≪廃止が理想社会だが…≫
死刑廃止は国際的潮流であり、死刑のない社会は一種の理想だと思う。それでも現時点ではすんなりと納得できない。廃止論が国家権力と死刑囚との関係だけで語られることが多く、死刑判断のもとになった犯罪の深刻さや冷酷さ、犯罪被害者の苦しみ、犯罪と社会の関係について語られることが少ないように思うからだ。
悲惨な境遇が犯罪を生む点は否めない。しかし、死刑囚を国家権力や社会の犠牲者とみるだけでは問題の解決にならない。
米国で犯罪被害者と加害者の対話プログラムの仲介役として活動していた男性は「犯罪は直接の当事者だけでなく、社会にも損害を与える。その損害から社会を回復させることが必要」とプログラムの目的を話していた。
ボストン・グローブ紙のコラムニストを務めるジェフ・ジャコビー氏は死刑支持を公言している。ジャコビー氏はこう語った。「私たちの社会が認めているもっとも重い刑、死刑に値する非常に悪質で悲惨な事件は実際に起きている。死刑は、社会がこうした犯罪を受け入れないのだと示すことができる唯一の方法だと考える。犯罪者をただ刑務所に収容するだけなら、社会はそうした犯罪を重大なものとみなしていないとのメッセージを送ることになる」
死刑執行停止が長く続いていたニュージャージー州で、廃止法案に賛成票を投じた同州上院議員の一人は「死刑判断が下されても執行されないのは偽善だ」と廃止の正当性を主張した。
少なくともこうはいえる。執行に至らなくても、社会が死刑判断をくだす重みは、やはりある。
(ながと まさこ=ニューヨーク支局長)